FrontPage京都の社寺大徳寺

見どころ

1319年大燈国師宗峰妙超禅師宗峰妙超開創。
臨済宗大徳寺派大本山。山号を龍寶山(りゅうほうざん)。
本尊:釈迦如来、
開基:大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)、1325年創立。
後醍醐天皇などの深い帰依を受け繁栄を極め、京都五山の上に置かれていたが、応仁の乱で焼失。その後、一休さんが再興。
禅宗寺院で、仏殿、法堂をはじめとする中心伽藍の他、22の塔頭。
茶の湯文化とも縁が深く、本坊および塔頭寺院には、建造物、庭園、障壁画、茶道具、中国伝来の書画など、多くの文化財。
侘び茶を創始した村田珠光(じゅこう)などの東山文化を担う人びとが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもつ。
【勅使門】(重文)慶長年間(1596年-1614年)建立の御所の門を下賜、寛永17年(1640年)移築。
【三門】(重文)二層の山門。連歌師(れんがし)・宗長(そうちょう)の寄進で1529年に下層のみが竣工し、1589年、千利休が上層を完成させて金毛閣と名づけた。
【総見院】 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。
【芳春院】(ほうしゅんいん)アンディ・フグ:K-1選手。2000年8月24日、急性白血病により35歳で死去。 加賀の前田利家の夫人芳春院が建立した塔頭で、前田家の菩提寺です。
一休さん
「一休小純(そうじゅん)」、文明六年(1474)、81歳の高齢で大徳寺住職。
生い立ち不明、後小松天皇のご落胤(らくいん)ではともわれるが、世捨て人に近い生活を送っていた。
その人柄は多くの人に敬愛され、堺の豪商や戦国大名達とも交流を深め、多大の援助を受けた。
一休さん亡き後も、大徳寺は諸大名達から多くの寄進を受けて栄えた。
豊臣秀吉は織田信長の葬儀をこちら大徳寺で盛大に執り行いました。
一休さんは風変りな奇行の多い人だったそうで、朱鞘の木刀を腰に差し、飲酒肉食はもとより、男色や女犯を行い側女まで置いていた。88才で京田辺市の酬恩庵(しゅうおんあん)で亡くなるが、臨終に際し「死にとうない」。
大徳寺納豆
麹菌を発酵させ、乾燥後に熟成させたもの。室町時代に中国から渡来。
大徳寺には一休が伝え、以来、大徳寺の僧により作られた。
大徳寺と千利休  秀吉の怒りについては、様々な説。
利休は三門の楼上に自分の木像を置き、激怒した秀吉によって切腹。
女好の秀吉が美しい利休の娘・お吟を差し出すよう命じたが利休が断った。利休が自分の地位を利用して茶器などを高値で売っていたから。
大徳寺の主な塔頭
龍源院・大仙院・瑞峯院・高桐院の四つが常時公開されております。
○龍源院:1502年創建。大徳寺塔頭の中で最古。方丈を囲む四つの庭。
○大仙院: 1509年創建。創建当時建立の本堂は国宝。枯山水庭園。
後に大徳寺住職となる沢庵和尚が七代目住職を務めた。
○瑞峯院: 1535年、大友宗麟が創建。方丈・唐門・表門が国指定重文。
○高桐院: 1601年、細川忠興が創建。忠興と夫人・ガラシャの墓。
○黄梅院:織田信長が建立。蒲生氏郷の墓がある。
〇三玄院:石田三成・浅野幸長・森忠政の三氏が建立。
○真珠庵:一休宗純ゆかりの寺。庭園は国指定史跡・名勝
○芳春庵:加賀前田家の菩提寺。
○聚光院:狩野永徳筆の障壁画が国宝。利休のお墓
○総見院:豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。
○龍光院:黒田長政の建立。有栖川宮家の墓所。
○孤蓬庵:境外塔頭。小堀遠州が創建。松平不昧公(ふまいこう)が再建。

山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、
金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい
利休居士自決の原因となったことは有名な話です。

場所

京都府京都市北区紫野大徳寺町53

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