三十三間堂

正式名:蓮華王院。本堂が通称「三十三間堂」。現在は妙法院の管理下で天台宗。
柱間(約2間)が33もある建築的な特徴。地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートル。
「33」の数は、観音様が33の姿に変身してこの世に現われ、衆生を救うという信仰によるもの。

1155年、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲り、
上皇として「院政」を行う。平安後期、約30年間、院政を行った後白河上皇が、
自身の職住兼備の「法住寺殿」と呼ぶ院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建。
かつては、本堂や五重塔・不動堂・北斗堂などの建ち並ぶ立派な寺院でしたが、
地震や火災で無くなり、鎌倉期・(1266)に再建が現存のもの。朱塗りの外装で、
堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られた。
千体の観音像は当初5人の仏師により200体づつ作成。124体は、平安期のままで、
他は鎌倉期に16年かけて再興。その約500体には作者名が残る。
中央の須弥壇に鎮座する本尊の千手観音坐像は高さが3m。国宝。
本尊の両側に各五百体、裏に一体、合計千一体の観音立像。高さは全て166㎝、寄木造。
前には二十八部衆立像と風神・雷神の立像があり、これらは全部国宝。
【太閤秀吉と三十三間堂
当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、
その権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、
お堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いた。
その遺構が南大門・太閤塀(ともに重文)。
大仏殿は、文禄4年(1595)9月完成。秀吉は、死後「豊国大明神」という神格で豊国神社に祀られる。
【通し矢】 
その始まりは伝説的で不明、桃山時代には行なわれたと伝える。お堂西縁の南端から
120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競う。江戸時代の人気は「大矢数」で、
夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競うものでした。
【大的大会】 江戸時代の「通し矢」にちなむ大会で、全国から二千人が参加し、1月15日前後。
特に新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさで、京都の風物詩のひとつです。
本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る。

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