醍醐寺

聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上で小堂宇を建立、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。
そののち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、延喜7年(907)には醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、
五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。
それに引き続くように下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立され、
ついで天暦5年(951)に五重塔が落成し、下伽藍の完成をみた。
醍醐寺はその後、真言宗小野流の中心寺院として仏教史において重要な地位を占めている。
永久3年(1115)に三宝院が建立され醍醐寺発展の基礎が確立されたのである。

醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。
豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られる。
境内は日本さくら名所100選に選定されている。
【醍醐の花見】とは、慶長3年3月15日(1598年4月20日)に豊臣秀吉が京都の醍醐寺において、
豊臣秀頼、北政所、淀殿ら近親の者を初めとして、
諸大名からその配下の者など約1300名を従えて盛大に催した花見の宴である。
その日の輿の順も記録に残されており、1番目に北政所、2番目に淀殿、3番目に松の丸殿、
4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、その後に側室ではないものの長くつき合いのあるまつ(前田利家正室)が続いた。
宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、
まつがその場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
秋には紅葉狩りをしようと約束して帰られた秀吉だが、その5ヵ月後には帰らぬ人となった。

現在でもこれにちなんで毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を催している。

【五重塔】平安時代(国宝)
醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。
京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものといわれている。
その後、隆盛を極めた醍醐寺も長い年月の間に幾度かの火災と殊に応仁・文明の大乱の余波によって
下伽藍堂宇はことごとく灰燼に帰してしまったが、幸いにも五重塔だけが難を逃れ、
天暦盛時の姿を今に留めている。
また上醍醐・准胝堂は“西国第十一番札所”として、五大堂は“五大力さん”信仰の中心となる。
【表書院】 (国宝)
庭に面して建っている表書院は、書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあり、
平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築である。
この表書院の東側に続いてある茅葺きの建物が純浄観(重要文化財)である。

2013-05-09撮影
醍醐寺 醍醐寺
醍醐寺

京都の社寺