東山方面

銀閣寺

見どころ 
正式名は東山慈照寺。山号は東山(とうざん)。
開基(創立者)は、室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされています。
夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、
このような例を勧請開山といいます。

室町幕府8代将軍足利義政は、1473年(文明5年)、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、
1482年(文明14年)から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めました。

当時は応仁の乱が終わった直後で、京都の経済は疲弊していましたが、
義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(ぶやく、労役)を課して東山殿の造営を進め、
書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていました。
足利義政が鹿苑寺の金閣舎利殿を模して造営した楼閣建築である観音殿は「銀閣」、
観音殿を含めた寺院全体は「銀閣寺」として知られ手います。

1490年(延徳2年)2月、同年に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、
相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺です。

総門から中門まで長さ約50メートルの参道。銀閣寺垣と呼ばれる
竹垣で囲まれた細長い空間は、これから始まる壮大なドラマの序章です。
本来は防御をかねた外界との区切りとして設けられたと思われますが、
その厳粛で人工的な空間は我々の雑念を消し去ってくれます。
それは喧噪の現代に生きる我々と、東山殿に現出しようとした
浄土世界をつなぐプロローグでもあります。

方丈前には白砂を段形に盛り上げた銀沙灘や円錐台形の向月台があります。
銀沙灘は月の光を反射させるためとか、向月台はこの上に坐って東山に昇る月を
待ったものだとかの俗説がありますが、これら二つの砂盛りも室町時代までは
とうてい溯り得ず、近世以後の発想ではないかと思われます。

場所
京都府京都市左京区銀閣寺町2

哲学の道

見どころ
南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疏水の両岸に植えられた桜はみごとで、
春や紅葉の秋は多くの観光客でにぎわう。
全長1.5kmの散策道には、450本のソメイヨシノが咲き誇る。

京都疎水は明治時代の京都の一大事業として作られた人工の水路です。
南禅寺の水路閣も疎水の水を流すために作られたものです。
哲学の道に流れている疎水は大津で取水されたあと長いトンネルを経て蹴上(けあげ)に到達します。
蹴上から分水して北上する疎水が南禅寺水路閣を経て哲学の道に流れています。

哲学者・西田幾多郎(京都大学教授・名誉教授)がこの道を散策しながら思索にふけったことから
この名がついたと言われる。
「思索の小径」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったとされており、
1972年に正式な名称となった。日本の道100選にも選ばれている散歩道である。
道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌
「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。

桜のシーズンが有名ですが、
毎年6月中頃には蛍狩もできます。

場所 
京都府京都市左京区

大文字

見どころ 
銀閣寺の山門横を抜けると大文字に登れる道があります。
こちらの大文字はいつでも登ることができます。
大の文字のところまで、約40分~50分、下山に30分~40分です。
京都市内が見渡せて気持ちいいですよ。
 

場所
京都府京都市左京区鹿ケ谷菖蒲谷町

南禅寺

見どころ
臨済宗、黄檗山萬福寺を本山とする場合は、黄檗宗と呼ぶ。
一般に禅宗とは、坐禅を元とする宗派の意味であり、臨済宗・黄檗宗・曹洞宗の三宗の総称です。
臨済宗・黄檗宗には15の本山があり、南禅寺はそのうちの一つで、南禅寺派の大本山です。
南禅寺は亀山法皇がご自分の離宮を正応4年(1291年)に開山したもの。京都五山の別格。

繰り返し火災が起り、荒れてたが、江戸時代に入り、僧崇伝(すうでん)により再興され、今日に至る。

三門は寺院を代表する正門。
禅宗七堂伽藍(勅使門、山門、仏殿、法堂、方丈、鐘楼、経堂、浴室)。
仏道修行のさとりの内容を示す空門、無相門、無作門をも意味する。
南禅寺の三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つ。
現在の三門は藤堂高虎が寛永5年(1628)に、大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために
再建したものであり、禅宗様式独特の圧倒的な量感と列柱群が力強さを示しています。
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもん ごさんのきり)の二幕目返しで石川五右衛門が
「絶景かな絶景かな……」という名科白を廻す「南禅寺山門」がこれである。
ただし実際の三門は五右衛門の死後34年経った寛永5年(1628年)の建築。
三門の高さは約22メートルです。明治32年(1899)国指定重要文化財となりました。

巨大な石灯籠は寛永5年の三門落慶の際に佐久間勝之が供養の為に奉献したもので、
高さ6メートル余りあり、大ささでは車洋一といわれています。

方丈は昭和28年国宝に指定されました。
豊臣秀吉により御所の清涼殿を移築した大方丈と伏見城から移築した小方丈。
「虎の子渡しの庭」は小堀遠州の作。

疏水は、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間。工事は明治18年(1885年)に始まり、
1890年に全長11.1kmで竣工した。

疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業,
潅漑用水,防火用水などであった。
ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、
1889年に蹴上に発電所が建設され,明治24年(91年)には送電を開始した。
インクライン道路向かいのレトロな発電所は今も現役。
また水力発電の増強と水道用水確保のため,第2疎水が1912年に完成している。
同時期に蹴上浄水場が建設され、現在は上水道の水源として利用されている。
水路閣は明治21年(1888年)に建設され、美しいアーチを描く全長93mの橋は、
琵琶湖疏水の設計者の田辺朔郎が設計。古代ローマの水道橋が手本。

南禅院
亀山天皇は、正応2年(1289)離宮で出家して法皇となられ、
離宮を寄進して禅寺とし大明国師を開山とされました。
ここは離宮の遺跡であり、また南禅寺発祥の地です。
庭園は当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、
周囲を深い樹林で包まれた幽玄閑寂の趣は格別である。
作庭は亀山法皇ともいわれ、早くから、京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されています。
南禅院方丈は、元禄16年(1703)徳川綱吉の母、桂昌院の寄進によって再建された。

場所
京都府京都市左京区南禅寺福地町

清水寺

見どころ
音羽山清水寺は、1200年以上前の奈良時代の末、778年の開創。
奈良の延鎮上人が草庵をむすんで千手観音像を彫作して祀ったのが、当寺のおこり。
その翌々年、坂上田村麻呂公が、仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置。
桓武天皇も堂塔をお建てになり、805年に清水寺と改められた。
宗派は、北法相宗(きたほっそうしゅう)。単立の一寺一宗である。
西国三十三所観音霊場「第十六番」札所
観音信仰で、観音様がたくさんおられ、今でいう観音様の一大テーマパーク!
【音羽の滝】は、音羽の山中より湧出する清泉で、わが国十大名水の筆頭にあげられる。「清水寺」由来。
【首振り地蔵】:願いのある方向に首を回して願い事をする。
清少納言が『枕草子』で、「さはがしきもの」の例として清水寺の縁日の日を挙げており、
平安時代、既に多くの参詣者を集めていた。
【今年の漢字】バブル期より毎年漢字の日(12月12日)に、(財)日本漢字能力検定協会主催「今年の漢字」。
【仁王門】室町時代、重要文化財。応仁の乱後、15世紀末に再建され、平成15年(2003)解体修理。室町時代の特徴を示し、昔ながらの丹塗り(にぬり)で“赤門”と呼ばれる。
正面軒下に平安時代の名書家藤原行成の筆と伝える「清水寺」の額を掲げ、
両脇間に勇壮な大仁王像を祀る。
清水寺の仁王門前の狛犬は、なぜか二匹とも口を開けた「阿形」。
一人が耳をつけて、反対側をもう一人が叩くと、「カンカン」と澄んだ音が聞こえてくる。
【鐘楼】通常、梵鐘は四本の柱で支えられますが、清水寺の梵鐘は大きくて重いために六本で支えている。
【本堂と舞台】江戸時代初期、国宝。寛永10年(1633)1633徳川家光寄進。
優美な起り反り(むくりそり)曲線を見せる寄棟造り、桧皮葺きの屋根や軒下の蔀(しとみ)戸(と)など、
平安時代の宮殿、貴族の邸宅の面影を伝える。
【三重塔】(重要文化財)1632年再建。高さ約三十m。国内最大級。昭和62年の解体修理の際、
丹塗りの極彩色に復元された。
【清水の舞台】は「懸造(かけづくり)」といわれれ長谷寺や石山寺の本堂も同じ構造。
総桧板張りの「舞台」、最高12メートル強の樹齢400年を越す巨大なケヤキの大木139本を立て並べて支える。釘を使わずに組み立てられています。
舞台は139本の柱を組み合わせて作られている。
2004年夏に【舞台張り替え】約10センチ厚の目がつまって雨に強い土佐産の桧。
約20年に1度張り替え。
江戸前期から幕末までだが残っている記録だけで、234件の飛び降りがあった。
生存率は約85%だったそうです。
【経堂(きょうどう)】江戸時代初期、重要文化財。本堂と共に寛永10年(1633)の再建。
一切経を宝蔵。
【仏足石(ぶっそくせき)】釈尊の両足形を陰刻したもの。「観仏三昧経」
などに仏足を拝めば無限無量の罪けがれも消滅するとあり、手で撫でられ続け、
ありがたい十一種類の文様が摩消している。
【百体地蔵堂(ひゃくたいじぞうどう)】釈迦堂と阿弥陀堂との間の奥に建つ。
子どもを亡くした親たちが、子どもそっくりの地蔵を探しあてて崇拝を厚くし、夏の地蔵盆会に賑う。
【阿弥陀堂(あみだどう)】江戸時代初期、重要文化財。寛永8~10年(1631~33)の再建
法然上人が日本最初の常行念仏を修した所で、上人像も祀っている。
【奥の院】 江戸時代初期、重要文化財。本堂と同期の寛永10年(1633)に再建。
「奥の千手堂」ともいい、本尊千手観音と脇侍地蔵菩薩・毘沙門天、二十八部衆、風神・雷神を祀る。
清水寺開創を起縁する音羽の滝の真上に建ち、元祖・行叡居士と開山・延鎮上人練行の旧草庵跡と伝える。
【子安搭】こやすのとう。本堂南、安産を祈る。平成25年(2013)に修復が完了。

場所
京都府京都市東山区清水1丁目294

知恩院

見どころ
山号は華頂山(かちょうざん)。
詳しくは華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)と称する。
本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、
現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。
浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、
諸堂の造営を行った。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、
現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。
寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、
3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや
知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平長親(ながちか)の弟であること、
京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、
朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。

約20万平方メートルという広大な敷地。
三門:高さ24メートル、横幅50メートル、屋根瓦約7万枚の堂々たる門で、
東大寺南大門より大きく、現存する日本の寺院の三門(山門)のなかで最大の二階二重門である。
外に掲げられている「華頂山」の額は、大きさは畳二畳以上にもなります。
【忘れ傘】御影堂正面軒下に名工・左甚五郎が魔除けに置いたとも、
白狐の化身・濡髪童子がおいたとも伝えられる傘で、知恩院を火災から守るものとされている。
【鶯張りの廊下】御影堂から大方丈・小方丈へ至る約550mの廊下で、
歩くと鶯の鳴き声に似た音がするため「鶯張りの廊下」と呼ばれ、
静かに歩こうとすればするほど音がする。

場所 

京都府京都市東山区林下町400

永観堂

見どころ 
正式名称は(しょうじゅらいごうさん むりょうじゅいん ぜんりんじ)
聖衆来迎山  無量寿院  禅林寺
第七世法主永観律師(ようかんりっし)にちなみ永観堂。
創建は貞観五年(863)、清和天皇より「禅林寺」の勅額を賜う。
本尊(重文)は、
みかえり阿弥陀像

この阿弥陀如来像は東大寺宝蔵に秘蔵されていたが、たまたま永観はその尊像を拝する機会があり、
永観は衆生済度こそ、この仏の本願であり宝蔵にしまっておくのはもったいない、と嘆いた。
これが白河法皇の耳に入り、永観が護持し、供養することとなった。
後年、永観が尊像を背負って京に入る際、東大寺の僧がそれを取り戻そうと追いかけたが、
尊像は永観の背に取り付いて離れず、僧たちはあきらめた。
永保2年(1082)、永観50歳のころである。
2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、
ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して行道していた。
すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。
永観は驚き、呆然と立ちつくす。
この時、阿弥 陀は左肩越しに振り返り、「永観、おそし」と声をかけられた。
永観はその尊く、慈悲深いお姿を後世に伝えたいと阿弥陀に願われ、
阿弥陀如来像は今にその尊容を伝える。

「おく山の 岩がき紅葉散りぬべし、照る日の光、見る時なくて」古今集
この歌は、
平安時代初期に、永観堂(禅林寺)を創建された弘法大師の弟子真紹僧都の徳を慕って、
自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌です。
永観堂は仁寿三年(853)の草創以来今日まで、幾多の文化人達の筆や口にもてはやされ、
親しまれて、“モミジの永観堂”としての歴史を持つ。
境内には約3000本の楓(カエデ)が植えられ、特に放生池周辺が美しい。

場所
京都府京都市左京区 永観堂町48

高台寺

見どころ
料金:大人600円、高校600円、中学250円、小学250円
時間:9:00~17:30 受付30分前まで

鷲峰山(じゅぶざん)高台寺、正しくは高台寿聖禅寺。
臨済宗建仁寺派に属します。
北政所が夫・豊臣秀吉の菩提をともらう為に慶長11年(1606)建立。
造営の際、徳川家康から援助を受けて壮大な伽藍を完成させたものの、
現在までに大半を焼失した。
秀吉と北政所を「霊屋(おたまや)」に祀り、北政所像の下はその墓所となっている。
傘亭、時雨亭は千利休が設計したもの。
桃山文化の粋を集めた小堀遠州作の庭園も見事。
臥龍廊(がりょうろう) - 開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ屋根付きの階段、
龍の背に似ているところからこの名が付けられた。
お江の人生に深く関わった豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)が秀吉没後、
その菩提を弔うために開創した寺です。
造営には徳川家康が政治的配慮もあり、多大な財政援助を行ったので寺観は壮麗をきわめたといわれます。
開山堂、霊屋、傘亭など多くが重要文化財に指定されており、
霊屋には秀吉と北政所を祀り、北政所像の下は墓所となっていると伝わります。
蒔絵装飾が施された須弥壇と厨子は桃山時代を代表する「高台寺蒔絵」として知られ、
開山堂の東西に広がる池庭は小堀遠州作として伝えられています。また寺前の通り、
「ねねの道」は清水寺や霊山護国神社に繋がる道でもあり、
その周辺は京都で最も多くの観光客が訪れ、華やいだ賑わいに包まれています。
桃山美術の豪華さが開山堂・霊屋・茶室時雨亭・傘亭・観月台
(いずれも重要文化財)などに見られる。
春季、夏季、秋季期間ライトアッブにより公開。
2014年7月更新

料金、時間等詳しくは現地へお問合せ下さい。
場所
京都府京都市東山区高台寺下河原町526番地

平安神宮

見どころ
明治28年、平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の実物の8分の5の規模で復元されたのが現在の平安神宮。
平安遷都(794)を断行した第五十代桓武天皇を祭神として創建。
後に、皇紀二千六百年にあたる昭和15年に、
平安京で過した最後の天皇第121代孝明天皇(明治天皇の父)が祭神として加えらた。
終戦までは官幣大社・勅祭社、現在は神社本庁の別表神杜。
京都の総社として信仰を集めている。
参道の大鳥居は昭和初期に建設された、高さ24.4m、最下部の柱の周りは11.4mもあり、
日本最大級の規模で、国の登録有形文化財に登録されている。
敷地面積は約10,000坪の日本庭園である「平安神宮神苑」を含め、約20,000坪ほどある

神苑
総面積 :33,000m2(約10,000坪)
様 式 :池泉回遊式庭園 国の名勝(昭和50年指定)
作 庭:7代目小川治兵衛(明治から昭和にかけて「植治(ウエジ)」と呼ばれ
東山界隈に円山公園、無隣庵を始め幾多の名園を残す。)
紅枝垂桜200本、その他の桜も100本。

【時代祭】は、平安神宮の創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事として、明治28年に始まった。
明治維新によって著しい衰退を見せた京都の町おこし事業の集大成として平安神宮が創建され、
そこに寄せられた人々の熱意の象徴として、まったく同じ意志のもとに創始されたのが時代祭です。
その意志は、京都の誕生日10月22日に「一目で京の都の歴史と文化が理解できるものを」
「京都をおいて他にはまねのできないものを」というものです。
時代祭行列は、京都全市域からなる市民組織「平安講社」(全10社)によって運営されています。
当初は6列、人員500名の規模でしたが、現在では明治維新時代、江戸時代、
安土桃山時代、室町時代、吉野時代、鎌倉時代、藤原時代、延暦時代の8つの時代を
20の行列に分けて1列ずつ担当しているほか、江戸時代婦人列、中世婦人列、平安時代婦人列は京都の5花街が輪番でご奉仕されるなど、
総勢で約2000名もの人々が参加する一大行列となっています。
また、1万2000点にもおよぶ調度、衣裳、祭具は綿密な時代考証が重ねられ、
京都が1000年の間、都として培って来た伝統工芸技術の粋を集めて復元された本物で、
まさに生きた時代絵巻が繰り広げられるのです。

平安神宮の周辺は岡崎公園として整備されており、文化ゾーンになっている。
大鳥居を挟んで西には京都府立図書館、京都国立近代美術館、京都会館、
東には京都市美術館、京都市動物園などがある。

場所
京都府京都市左京区岡崎西天王町

八坂神社

見どころ 
スサノヲノミコト(素戔嗚尊)、
クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、
ヤハシラノミコガミ(八柱神子神)を祀る。
日本神話でも知られるように、スサノヲノミコトは、八岐大蛇を退治し、
クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらした偉大な神さまです。
八坂神社の歴史は、社伝によれば平安建都の約150年前(656)。
都の発展とともに、日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3千の分社が日本各地にあります。
八坂神社は、「祇園社」「感神院」などと称したが、明治維新の神仏分離で、「八坂神社」と改称。
【祇園祭】
平安時代のはじめ、都に疫病が流行して、多くの人々が死に絶え、
この災厄の発生を政治的に失脚して処刑された人の怨みによる崇りであろうと考え、
はじめはこの御霊をまつったのですが、怒りは治まらず、より強い神仏が求められた。
この怨霊(御霊)を退散せしめることができるのは、素戔嗚尊のような、
偉大な神格の神に頼るほかないと、祇園社に祀られているこの神に祈ったのです。
怨霊は御霊(ゴリョウ)といい、これを退散させる祭りを御霊会(ゴリョウエ)と称し、
貞観7年(865)6月7日にも行われたことが『三代実録』に記されています。
神泉苑に矛66本を立て、祇園社から神輿を送ったとされています。
これが祇園祭のはじめでした。
7月1日より7月31日まで1ヶ月に及ぶお祭りです。
7月1日の「吉符入」ではじまる祇園祭は、7月17日山鉾巡行、神幸祭、
7月24日の花傘巡行、還幸祭を中心に、7月31「疫神社夏越祭」で幕を閉じます。

平安京建都(794)以前より八坂神社のある東山一帯はひらけた場所で、
渡来人であった八坂造(やさかのみやつこ)一族が住したところであった。
「八坂の塔」で有名な法観寺も平安京以前の創建で、八坂造の氏寺ではなかったかともいわれている。

国の重要文化財に指定されている本殿は、
かつて別棟であった二つの建造物-本殿と拝殿-とを一つの屋根で覆ったもので、
他に類例のない建築様式であることから、「祇園造」とよばれている。

祭典後、境内二ヶ所の「をけら灯籠」に「をけら火」を移します。
「をけら灯籠」の浄火を火縄にうけて帰り、灯明の火をつけ、雑煮を炊き新しい年の幸せを祈ります。

「をけら詣」は京都のお正月を代表する風物詩で、
大晦日の夜を徹して焚かれる「をけら木」から移した
火を消さないように火縄をくるくると回しながら
持ち帰ります。

場所 
京都府京都市東山区祇園町北側625

今戒光明寺

見どころ 
「くろだにさん」の通称で知られる浄十宗大本山。
正式には、紫雲山・くろ谷 金戒光明寺。
法然上人がはじめて草庵を営んだ地。
浄土宗の大本山、法然上人が承安5年(1175年)四十三歳の時比叡山の黒谷を下り
この地に草庵をむすばれた。これが浄土宗最初の寺院となった。
山門、阿弥陀堂、本堂 など18もの塔頭寺院が建ち並ぶ。
また、幕末京都守護職会津藩一千名の本陣にもなった。

御影堂(大殿) :正面には宗祖法然上人75歳の御影(座像)を奉安している。
火災による焼失後、昭和19年に再建となったもので、
堂内の光線と音響に細部の注意が凝らされて昭和時代の模範建築物といわれている。

阿弥陀堂 :慶長十年(一六〇五年)豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中最も古い建物である。

山門 :万延元年(一八六〇年)の完成

新選組発祥の地
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。
文久二年(1862)に徳川幕府は京都守護職という新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせた。
文久二年閏八月一日、会津藩主松平容保(かたもり)は江戸城へ登城し、
十四代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられた。
役料五万石・金三万両を与えられた。
なぜ、黒谷金戒光明寺が本陣に選ばれた3つの理由。
一、城構えである。
徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ。
直割地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように
黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとした。
黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、
西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。
小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、
特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。
二、要所に近い。
御所まで約2㎞、粟田口(三条大橋東)東海道の発着点までは1.5㎞のくだり、
馬で走れば約五分、人でも急げば十五分で到着できる要衝の地であった。
三、千名の軍隊が駐屯できる。
約四万坪の大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯できた。
黒谷には大小五十二の宿坊があり駐屯の為に大方丈及び宿坊二十五ヶ寺を
寄宿のため明け渡したという文書が残されている。
2010年、「そうだ京都へ行こう」のポスターに選ばれてからは観光客で人気。
江-崇源院供養塔 - 徳川秀忠正室・徳川家光の母。
春日局墓所 - 江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。
徳川将軍の跡継ぎをめぐって次男・忠長を溺愛したお江と
長男・家光の擁立に励んだ乳母・春日局との確執は有名な話ですが、
結局、春日局に軍敗が上がり、後にお江は失意のあまり病没、忠長は自害。
金戒光明寺の墓地には春日局が追善の為に建立したお江と忠長の供養塔がひっそりと建ち並ぶ。

料金:志納
時間:9:00~16:00

料金、時間等詳しくは現地へお問合せ下さい。

場所 
京都府京都市左京区黒谷町121

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