京都駅周辺

西本願寺

見どころ 
浄土真宗本願寺派の本山。正式名称は「龍谷山 本願寺」。
真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別する為、通称で呼ばれる。
世界遺産にも登録されている。
本願寺住職が浄土真宗本願寺派の門主となる。
2011年4/9より2012年1/16まで、本願寺御影堂にて親鸞聖人750回大遠忌法要が行われる。
境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されている。
建物の配置と構造は真宗建築の典型で、親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が、北隣の本堂(阿弥陀堂)よりも大きく造られている。
寛永13年(1636年)に建立された御影堂は、「寛政の大修復」寛政12年(1800年)及び「平成大修復」(1999年 - 2008年12月)と2回の大修復を経ている。
幕末には新撰組の本拠地ともなった。
本願寺は、宗祖親鸞聖人によって開かれた浄土真宗本願寺派の本山で、当初、聖人の廟所(墓地)のあった京都東山に創建された。その後、各地に寺基を移したが、天正19年(1591)豊臣秀吉により寺地寄進を受けて現在地へ移ってきた。伽藍は移転後直ちに整えられ、寛永10年(1633)頃にはほぼ今日に近い姿となりました。

場所 
京都府京都市下京区 堀川通花屋町下ル

東本願寺

見どころ 
東本願寺(真宗本廟)は、包括宗教法人である「真宗大谷派」に包括される単位宗教法人ではなく、
法人格を有していない。大谷派が所有する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による寺院ではない。
【御影堂】は、境内のほぼ中心に位置する和様の道場形式の堂宇である。外観は二重屋根であるが、単層建築。
間口76m・奥行き58mであり、建築面積において世界最大の木造建築物。
現在の建物は、明治13年(1880年)に起工し、明治28年(1895年)の完成である。
平成16年(2004年)3月から平成21年(2008年)12月にかけて、大規模修復が行われた。
総工費は、約98億円]である。
【阿弥陀堂】は、御影堂の南側に位置する禅宗様を取り入れた仏堂である。間口52m・奥行き47m。
床面積比で御影堂の半分以下しかないが、仏堂の大きさとしては全国7位。
現在の建物は、
明治13年(1880年)起工し、明治28年(1895年)の完成。
【御影堂門】は、
高さ約28mの入母屋造・本瓦葺き・三門形式の二重門。
「真宗本廟」の扁額を掲げる。
京都三大門の1つである。明治44年(1911年)の再建。

場所
京都府京都市下京区常葉町 烏丸通七条上る

渉成園

見どころ
真宗大谷派の本山(真宗本(しんしゅうぼん)廟(びょう))の飛地境内地で、
周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸(きこくてい)
ともよばれています。

この地は、もともと平安時代初期(9世紀末)嵯峨天皇の皇子
左大臣源融(みなもとのとおる)が、奥州(おうしゅう)塩釜(しおがま)の景を
移して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池(ろくじょうかわらのいんえんち)の
遺蹟(いせき)と伝えられています。
その後、1641(寛永18)年、徳川家光によってその遺蹟の一部を含む現在の地が
寄進され、さらに、1653(承応2)年、第13代・宣如上人の願いによって
石川丈山が作庭したのが渉成園のはじまりです。

1858(安政5)年と1864(元治元)年の二度の火災によって諸殿は全て類焼しましたが、
1865(慶応元)年から明治初期にかけてほぼ復興され、池水・石組は創始のころと
ほとんどかわることなく今日にいたっています。

なお、1936(昭和11)年12月には、国の名勝に指定されています。

渉成園は、印月池から侵雪橋、縮遠亭を望む景観をはじめ、
広い庭園内に咲く桜、楓、藤などが四季折々の景趣を富ませています。

場所 
京都府京都市 下京区下珠数屋町通間之町東入東玉水町

三十三間堂

見どころ
正式名:蓮華王院。本堂が通称「三十三間堂」。現在は妙法院の管理下で天台宗。
柱間(約2間)が33もある建築的な特徴。地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートル。
「33」の数は、観音様が33の姿に変身してこの世に現われ、衆生を救うという信仰によるもの。

1155年、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲り、
上皇として「院政」を行う。平安後期、約30年間、院政を行った後白河上皇が、
自身の職住兼備の「法住寺殿」と呼ぶ院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建。
かつては、本堂や五重塔・不動堂・北斗堂などの建ち並ぶ立派な寺院でしたが、
地震や火災で無くなり、鎌倉期・(1266)に再建が現存のもの。朱塗りの外装で、
堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られた。
千体の観音像は当初5人の仏師により200体づつ作成。124体は、平安期のままで、
他は鎌倉期に16年かけて再興。その約500体には作者名が残る。
中央の須弥壇に鎮座する本尊の千手観音坐像は高さが3m。国宝。
本尊の両側に各五百体、裏に一体、合計千一体の観音立像。高さは全て166㎝、寄木造。
前には二十八部衆立像と風神・雷神の立像があり、これらは全部国宝。
【太閤秀吉と三十三間堂】
当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、
その権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、
お堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いた。
その遺構が南大門・太閤塀(ともに重文)。
大仏殿は、文禄4年(1595)9月完成。秀吉は、死後「豊国大明神」という神格で豊国神社に祀られる。
【通し矢】
その始まりは伝説的で不明、桃山時代には行なわれたと伝える。お堂西縁の南端から
120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競う。江戸時代の人気は「大矢数」で、
夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競うものでした。
【大的大会】 江戸時代の「通し矢」にちなむ大会で、全国から二千人が参加し、1月15日前後。
特に新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさで、京都の風物詩のひとつです。
本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る。

場所 
京都府京都市東山区三十三間堂廻リ657

東福寺

見どころ 
臨済宗東福寺派大本山の寺院。
山号は慧日山(えにちさん)。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、
九条道家、開山(初代住職)は聖一国師円爾(しょういちこくしえんに)。
京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えました。
明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭
(たっちゅう、山内寺院)を有する大寺院です。
境内の中ほどは渓谷となって「通天橋」ほか2つの橋廊が
架け渡されており、京都屈指の紅葉の名所として有名です。

通天橋・開山堂
拝観料 400円(小中学生 300円)

国指定名勝 東福寺本坊庭園
拝観料 400円(小中学生 300円)
2014年7月更新

場所
京都府京都市東山区本町15丁目778

東寺

見どころ
京都市南区九条町にある東寺真言宗総本山の寺院。
正式名称は「教王護国寺」
山号は八幡山。本尊は薬師如来。
東寺は唯一残る平安京の遺構で、平安遷都と共に建立された官寺(国立の寺院)。
東寺は平安京鎮護のための寺院として計画された後、桓武天皇の後に即位した嵯峨天皇が、
弘法大師空海に託し、日本で始めての密教寺院が誕生し、真言密教の根本道場として栄えました。

文明の大火で主要堂塔のほとんどを失いますが、豊臣家・徳川家などの援助により、
金堂・五重塔などが再建されています。

【講堂】大日如来が中心となる立体曼荼羅。室町時代の再建。
講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。
須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、
向かって右(東方)には
金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、
向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。
また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置。
以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。
これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、空海没後の承和6年(839年)に開眼供養が
行われているが、全体の構想は空海によるものとされる。
21体の仏像のうち、五仏(重要文化財に指定)のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から
江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像で、
平安時代前期を代表する密教彫像として国宝に指定されている。

【金堂】が本堂。木造薬師如来及び両脇侍像(重要文化財) - 金堂本尊。
中尊の像高2.88メートル、台座と光背を含めた総高は10メートルに達する巨像で、
中尊の光背には七仏薬師像を配している。桃山時代。

【五重塔】 高さ55メートルで木造建造物としては日本一。空海が唐より持ち帰った仏舎利を納めています。
寛永21年(1644年)に徳川家光の寄進により再建されました。
御影堂(大師堂)は弘法大師がお住まいだったところ。ご本尊(弘法大師坐像)があります。


平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」
として世界遺産に登録されました。

場所
京都府京都市南区九条町1

伏見稲荷大社

見どころ 
太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、
和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮した。
由縁として、この頃全国的に季候不順で五穀の稔りの悪い年が続いたので、
稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み栄えた、この祭祀された日こそが
和銅4年の2月初午であった、との伝承があります。
主祭神として祀られている宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が、
日本に初めて稲を肩に荷って天から降りてきたので「稲荷」と呼ばれるようになった。
元々は農耕の神様で、五穀曲豆穣が、中世頃から商売繁盛へと発展し、さらに開運の神様とされた。
明治四年(1874)には官幣(かんぺい)大社に列せられており、現在では、全国に四万程ある稲荷社の総本家。
平成21年の初詣客は約277万人。
【稲荷山:海抜233m 境内地:約27万坪 お山巡拝所要時間約2時間】

【初午(はつうま)】
今日“初午”は、年中で最も寒い時季に当り、時として節分の前にめぐり来ることもあります。
しかし旧暦では、もう少し春めいた頃(通常は2月下旬から3月中旬の間)にめぐってきたものでした。
初午詣には、平安時代の初期から老若男女がうち連れて群参した様子がうかがえます。
『今昔物語』には、物見遊山的な気分で参詣する者もいたということです。
『枕草子』には、初午に七度も登拝をするという熱烈な信仰がいたとしたためられています。

【秀吉の信仰】
天正16年、秀吉は生母大政所の大病平癒を当社に祈願し、この願いを叶えてくれたなら
一万石を寄進すると申し出ました。当社ではおおがかりな祈祷を執行しその結果大政所は回復。
これによっていっそう当社への信仰を深めた秀吉はその前後から当社の本格的な修復をし、
現在の楼門はその折の建立であります。
この秀吉の修復工事によって境内諸社殿のたたずまいはおおよそ現代の規模に近いものになりました。

【千本鳥居】
「赤い鳥居」といえば、すぐ「おいなりさん」を連想するほど、赤という色が人々の心情に深く染みとおっています。
元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっています。
この「あけ」という言葉は、赤・明・茜など、すべてに明るい希望の気持ちをその語感にもち、
その色はまた生命・大地・生産の力をもって稲荷大神の“みたま”の働きとする強烈な信仰が宿っています。
名所「千本鳥居」の奉納は、すでに江戸時代に興り今日のを形作っています。

【おもかる石】
奉拝所の右側後に、一対の石灯篭があります。この灯篭の前で願い事の成就可否を念じて
石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、
重ければ叶い難いとする試し石です。
【願かけ絵馬】
それぞれの願いを絵馬の裏面に書き、絵馬懸けにつるしてその成就を願うもので、
商売繁昌・家内安全・良縁・病気平癒など願いごとは様々です。特に一月と二月は受験合格祈願の人々でにぎわいます。

場所 
京都府京都市伏見区深草藪之内町68

泉涌寺

見どころ 
料金:大人500円、高校500円、中学300円、小学300円
時間:3月~11月9:00~16:30
I2月~2月9:00~16:00
東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓に皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として佇む。
弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名。
嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成、その際、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。
この泉は今も枯れることなく涌き続けている。
観音堂にある楊貴妃観音を拝むと美人になるそうで、女性のお参りが多いお寺。
真言宗泉涌寺派総本山。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。
鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、
皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。
応仁の乱による焼失を初め、
諸堂はたびたびの火災で焼失しており、現存の堂宇は近世以降の再建。
大日本帝国憲法施行以来日本国憲法施行まで、営繕・修理費は全て宮内省が支出していた。
【即成院】相聞をくぐってすぐ左にあり。源平の戦いで兵士の掲げる扇の的を
海に入って馬上から見事に射落としたことで名高い那須与一の墓といわれる大きな石の宝塔がある。
本堂裏、本尊は阿弥陀如来坐像と二十五菩薩坐像で、
二十五菩薩坐像を供養するお祭りが10月半ばに行われます。
本堂と地蔵堂の間に仮に作られる橋の上を菩薩の姿をした稚児が練り歩く。
【戒光寺】即成院の隣。高さ10mの大きな釈迦如来立像がある。
【観音寺】西国三十三ヵ所礼状の第15番札所。弘法大師が熊野権現から十一面観音菩薩を授かって安置したのに始まる。
【来迎院】観音寺の向い。赤穂浪士と縁の深いお寺。
大石倉之助が一時ここに身を寄せていた。三宝大荒神坐像が安置されている。
【雲龍院】後光厳天皇(ごこうごんてんのう)が1372年(応安5年)に建立。
大変皇室と深い関係にある。現在の本堂は1645年に建てられたもので国の重要文化財。
霊明殿には北朝時代の歴代の天皇の位牌が安置されている。鐘楼と勅使門は御水尾天皇が寄進。

2014年7月更新

料金、時間等詳しくは現地へお問合せ下さい。
場所
東山区泉涌寺山内町27

醍醐寺

見どころ
聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上で小堂宇を建立、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。
そののち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、延喜7年(907)には醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、
五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。
それに引き続くように下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立され、
ついで天暦5年(951)に五重塔が落成し、下伽藍の完成をみた。
醍醐寺はその後、真言宗小野流の中心寺院として仏教史において重要な地位を占めている。
永久3年(1115)に三宝院が建立され醍醐寺発展の基礎が確立されたのである。

醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。
豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られる。
境内は日本さくら名所100選に選定されている。
【醍醐の花見】とは、慶長3年3月15日(1598年4月20日)に豊臣秀吉が京都の醍醐寺において、
豊臣秀頼、北政所、淀殿ら近親の者を初めとして、
諸大名からその配下の者など約1300名を従えて盛大に催した花見の宴である。
その日の輿の順も記録に残されており、1番目に北政所、2番目に淀殿、3番目に松の丸殿、
4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、その後に側室ではないものの長くつき合いのあるまつ(前田利家正室)が続いた。
宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、
まつがその場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
秋には紅葉狩りをしようと約束して帰られた秀吉だが、その5ヵ月後には帰らぬ人となった。

現在でもこれにちなんで毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を催している。

【五重塔】平安時代(国宝)
醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。
京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものといわれている。
その後、隆盛を極めた醍醐寺も長い年月の間に幾度かの火災と殊に応仁・文明の大乱の余波によって
下伽藍堂宇はことごとく灰燼に帰してしまったが、幸いにも五重塔だけが難を逃れ、
天暦盛時の姿を今に留めている。
また上醍醐・准胝堂は“西国第十一番札所”として、五大堂は“五大力さん”信仰の中心となる。
【表書院】 (国宝)
庭に面して建っている表書院は、書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあり、
平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築である。
この表書院の東側に続いてある茅葺きの建物が純浄観(重要文化財)である。

2013-05-09撮影

場所
京都府京都市伏見区醍醐東大路町22

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