この記事では、京都の上賀茂にまつわる不思議な話に迫ってみたいと思います。
というのも、弊社では京都観光の街歩きツアーとして、京都最古の大田神社と上賀茂社家町散策ツアーを催行しております。
こちらのツアーを企画するにあたって、実際に社家の子孫の方にお話をお伺いし、おすすめの書籍や文献も教えていただきました。
本を読んで新たな発見をし、その答え合わせを聞きにまた伺う、そして新しい本をまたお借りし、いろいろと思索にふける。
そんな日々を過ごし、とても嬉しいことに、そういった「生のお話」や様々な書籍・研究グループの会報誌などの読み物から、今まで全く知らなかった非常に興味深い数々の情報と出会えました。
教科書には載っていない、だけど京都で育った人間として、ひいては日本人として知っておきたい自分たちのルーツのようなものに出会ったのではないか。
当時の私は非常に興奮しながらそう感じましたし、今も探求心がどんどん芽生えてきております。
まさに「知れば知るほど」という状態です。
では何故「ルーツのようなもの」「出会ったのではないか」と曖昧な表現をしているかというと、やはり歴史には諸説あるからです。
私が見聞きし出会った様々な情報はとても不思議で特別な「京都の歴史の一端」ですが、繰り返しになりますが教科書では一切習っていません。
ですので、ざっくり言いますと「史実とは異なる」と言われてしまうかもしれないのです。
でも一方で、「歴史」とひとことで言ってもA氏とB氏の思う歴史観は違うかもしれない。
そのAさんとBさんが同じ時期に「後世に残そう」と思い立ち記録を作成すれば、300年後に全く違う「同じことに関する記録」が2種類発見されるかもしれない。
そう思うと、必ずしも一つの「定説」が全てではない、とも思うわけです。
というわけで、信じるか信じないかはあなた次第(笑)とここで前置きをしつつ、上賀茂の不思議について書いてみたいと思います。
目 次
上賀茂神社の歴史
上賀茂神社は、「賀茂別雷神社(かもわけいかづち)神社」というのが正式名です。
正直初めに聞いたときは「え?いかづち?雷??なんで???」と思いました。
元々幼少のころから上賀茂神社にはよくお出かけをしていて「お馬さんがいる神社」ぐらいに思っていたのが、成長するに従い「世界遺産なのか・・・」と改めて歴史の重みを感じ、ものすごく重要な神様をお祀りしている由緒正しい場所なんだと認識が変遷していったので、「雷??」とそこで急にイメージと違うアイテムが登場したような気持になったのです。
御祭神が「賀茂別雷大神(かもわけいかづちおおかみ)」ということで、「ん??雷の神様??雷様!?!?」
要するに知識不足なのですが(笑)…。
こんなところから私の地の探究はスタートしました。
上賀茂神社のはじまりを伝える神話
上賀茂神社の公式ホームページでは、とても丁寧な「神話」の説明ページを設けてあり、ちゃんとわかりやすく伝えてくださっています。
また、上賀茂神社の境内にも、謡曲史跡保存会様が作成されたわかりやすい説明版が設置してあります。
時系列でまとめると、
- 神代の時代(昔々)雷が鳴り、空から矢が降ってきた
- 移り住んできた秦氏の姫は賀茂川の上流で水浴びをしていた(お清め)
- そこに矢が流れてきたので、不思議に思い大事に持ち帰った
- 持ち帰った矢を丁寧に床の間に祀ってその部屋で寝た
- その矢の不思議な力で姫はご懐妊
- 立派な子を産む
- その子を御子神とし、祖父が成長のお祝いに様々な神様を各地から招待した
- その祝いの宴で祖父が御子に「どの神様(招待客)が父なん?父と思う神様に盃をかわしてみ!」と盃を渡す
- 御子は「私の父は天津神(あまつかみ)です」と盃を天に投げ天井を突き破って雷が鳴る中、天へ昇ってしまった
- 祖父も母(姫)もびっくり仰天し、悲しみ、また会いたいと一生懸命天に祈った
- そんなある日、姫の夢に御子が出てきた
- 御子は夢の中で「私に会いたいならこれらを準備してください」と複数の指示を出した
- 姫と一族はお告げの通り一生懸命準備をした
- すると、立派に成長した御子が天より神として神山(こうやま)に降臨された
- この御子神が「賀茂別雷大神(かもわけいかづち)」であり、上賀茂神社の始まり
【上賀茂神社公式サイト「御神話」参考】
ここでまず私は非常に驚き感動してしまいました。
何故なら「神山(こうやま)」は昔から馴染みのある近所の地名であり、特別意識していなかったからです。
「え?あのこうやま??あのこうやまに神様が降りてきたの???あ、そうか神の山と書いてこうやまやもんな…」と、鳥肌が立つ思いでした。
恥ずかしながら知識なさ過ぎですが(笑)地元すぎて、おそらく地元の人はそんなに意識していないというのもまた、「あるある」なのではないでしょうか。
いやぁ~凄いところに住んでたんやな、と。すごい山を普通の近所の景色として見ながらバイクや車を飛ばしてたんやな、と。
神山を臨む賀茂川周辺の景色は何とも優美でのどかな事は確かです。
これは断言できます。本当に美しい!
神仏習合
さて、日本には数多くの神社とお寺があるのは周知の事実ですが、昔(明治以前)はお寺と神社は習合(融合)していました。
そして、簡単に言うと様々な理由から、ある時期を境に時の政府により明確に神社と寺が分けられた、ということですね。
神仏習合は奈良時代から、神仏分離がなされたのは明治時代。
ここは何となく一般的な知識として持っている方が多いかと思います。
私もなんとな~くうっすら知っていたような感じでした。
その中で、上賀茂の代々神官であった家系の方に直接お話をお聞きし、神仏習合時代のリアルな日常風景を垣間見ることができました。
上賀茂神社には、平安期から続く寺も敷地内に併存しており、皇室と深くかかわる独自の神道であったそうです。
当時7つの小さな庵(寺)があり、寺によっては宮司をこき使う坊主もいて、どちらの位が上というよりも混ざり合って独特の神道を形成していたんだとか。
非常に歴史があり深遠な神事を代々取り仕切り、その神事に関する数々の貴重な記録書や書物があった、との事でした。
しかしながら、明治初期の政府による国家神道への切り替え「社寺領上知令」によって、神仏習合に関するその貴重な記録書や書物は全て燃やされてしまったと…。
軽々しく言えないことなのですが、とにかく残念です。本当に残念ですよね。
なぜ記録としても残させてくれなかったのか、何故全て燃やす必要があったのか…。
事実は小説より奇なり(Truth is stranger than fiction)とはまさにこのこと。
お話をお聞きしながら、これはドラマなの?小説の世界なの?ということが歴史上で起きていました。
しかも自分の育ったこんな身近なところで…。
皇室と賀茂のつながり
神仏習合とも深くかかわることなのですが、やはり長い歴史の中でここ賀茂というエリアは皇室との密接なつながりがあったようです。
上賀茂の社家の中から多くが皇室にも仕え、また多くの行事も行っていました。
この分野は様々な研究が行われ、また多くの記録物が焼失していることからも謎が多い分野だと思います。
ですので、ここで素人の私が史実として言及をすることは避けますが、ただの感想というか空想というか、思ったこと、いまだ探求中であることとして意見を述べたいと思います。
それは、日本人は今でも心の中では神仏習合なのでは?ということです。
「神様仏様どうかお願いします」というフレーズを自然に心の中で唱えたり、各地方で決められた日時に毎年お祭りを行ったり、「神仏習合」も「神事」も生活に溶け込んでいる。
そして、義務ではないのに何とか続けていこうと思っているし、実際に多くをものすごい長い期間バトンをつなぎながら継続しています。
そして、天皇陛下は日本人の象徴として、毎年最重要な神事を多数執り行ってくださっている。
私たちの心の奥底にも、生活の一部にも自然と備わっているのが神様であり仏様なのかなあ、なんて感じたりします。
そしてそれを支える日本の象徴が天皇陛下ですが、私たちにとって近くて遠い、そんな感じがしませんか?
もちろん遠い存在なのは確かなのですが、なんというか私たちの模範であり、リーダーであり、という側面で言えば近くも感じたり。
それはきっと、無意識に、自然に「神様仏様」「お天道様が見てるから」という日本人特有の感覚があるからこそなのかもしれませんね。
上賀茂のすぐきと焼餅
「歴史」カテゴリーの中に突如美味しそうな「食べ物」が登場したのは私が食いしん坊だからではありません(笑)。
実はこの上賀茂名物の食べ物は、社家の歴史と密接にかかわっているんです。
上賀茂地域には名物がいくつかあるのですが、歴史的に非常に貴重でありながら今でも親しまれている代表格が、
- 焼き餅
- すぐき(漬物)
ではないでしょうか?
特に上賀茂の焼き餅は賞味期限が非常に短く、この神社前のお店で食べるのが一番美味しいですし、そんなに出回らない上賀茂ならではの食べ物ですよね。
一方すぐきは、今や京都の名物として、またスーパーフードとして全国でも徐々に知名度が上がっていると思いますが、実はすぐきはその昔、上賀茂社家の専売特許だったのです。
すぐきを食べたことがない方は是非一度食べてみていただきたいのですが、何を隠そうすぐきは本当に酸っぱいです。
なぜなら乳酸発酵でしっかり酸味が出まくっているからなんです。
味のついた酢に付け込んだ漬物ではなく、長い時間をかけて自然と乳酸発酵させたスーパーフードがすぐきです。
このすぐきは、元々社家の敷地内で栽培され、ある一定の位の人たちしか食べられませんでした。
それが時を経て、栽培することも食べることも庶民に受け継がれていって今に至ります。
社家の方々は、神社にお仕えするとともに、贅沢をしていたわけではなく、様々な工夫をして何とか収入を得ていた姿が垣間見えたような気がします。
そういった伝統食を実際に生み出し一般に広めた上賀茂社家町。
私はすぐきが大好きなので、本当に上賀茂社家町に感謝せずにはいられません(笑)。
また、この一帯は水害が多かった為、土自体は肥沃だったことに加え、さらに上賀茂上流の方に昔々位の高い人たちの”いわゆる排せつ物”を廃棄するいわゆる「肥溜め」があったそうです。
従って、良いものを食べている栄養豊富で高貴な排せつ物(笑)が定期的に土に加わり、非常に良い土ができていったと。
そこに、賀茂川上流からのきれいな水や豊富な地下水も豊富に仕えるとあって、上賀茂野菜が一種のブランドになっていきました。
そういった食文化は、歴史と結びつけて紐解いていくと非常に面白いですよね。
賀茂川社家と葵祭
葵祭は京都で大変有名な祭りですが、この上賀茂エリアと賀茂川が多いに関わっています。
「葵」の葉っぱは形が可愛らしく、色もきれいで「葵」地区という地名にもなっています。
これに関して、社家に残っていた貴重な資料として、非常に古く読むのも大変な「葵祭が始まった当初の日記」を見せていただいたことがあります。
普通の文字や文章ではなく、非常に古いそれこそ草書のような日記でしたので、特別に勉強しなければ読むことはできないものです。
実際にその時代の文字や文体を勉強し内容を研究されている社家の方に、日記の内容を教えていただいたのですが、社家の敷地内でたくさん葵を育て、春のシーズンになったら売り歩いていたそうです。
そしてまた、長い時間をかけて長距離をひたすら歩き、「葵を買ってくれた人の家々に集金に出かける道中の日記」が、私が見せていただいたものでした。
確かに、漢数字と「〇〇銭」と記録してあり、その葵を売ったお金が初期の葵祭の原資になっていたそうです。
祭りの中での神事のみならず、資金集めから祭りの準備まで、様々なことを一手に担っていたのがこの社家町の人たちだったのですね。
質素で貧しい暮らしの中で様々な工夫を凝らしてお金を稼ぎ、伝統を守ってきた。
そういう時代もあったのです。
社家解体
明治政府が新たな時代の理念として掲げた一つに、天皇親政(てんのうしんせい)がありました。
これまで250年以上続いた江戸幕府に代わるため、天皇を精神的支柱に据え、国民統合を志向したものと言われています。
そのため、神道の国教化が宗教政策の根幹となり、まずは古代より継続する神仏習合の解消が目指されました。
これにより、上賀茂神社が脈々と紡いできた独自のやり方は、突然明治政府の神祇省(じんぎしょう)によって上賀茂神社から切り離されました。
その際、多くの社家は突然に職を失うことになるわけですが、その代わりというか、今でいう退職金のような形で、屋敷だけはそのまま住んでも良しとされたのだそうです。
上賀茂にかかわる様々な人たち
上賀茂に明治で起こったことに関して、多くの民は耐え難いつらい時間を過ごすことになったでしょう。
その一方で、上賀茂から失われたものを「貴重」なものとして再度光を当ててくれた人物もいたのです。
それがあったからこそ、今につながるものもまたあると思うのです。
失ったものとそれを取り戻そうと奮闘した人
明治初期に上賀茂社家はある意味解体され、場所だけ残されました。
多くの資料が失われ、神社に仕えていた人たちも一斉に職を失ったのです。
そこに一筋の光が当たる出来事があります。
当時、アメリカから上賀茂の地へ調査に来た人がいます。
アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853年2月18日 - 1908年9月21日)という人物で、アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者でした。
明治時代に日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られており、賀茂の人たちにとって恩人とも言える超重要人物です。
フェノロサは狩野派絵画に心酔しており、狩野永悳(えいとく)に師事していたこともあり、当時の日本の美術行政や文化財保護行政にも深く関わっています。
1884年に文部省図画調査会委員に任命され、同年には岡倉天心らと共に近畿地方の古社寺宝物調査を行いました。
また、記録としては1880年と1882年にも京都の社寺に来ていると残っています。
そこで、フェノロサはこの賀茂から多くの貴重な史料・文化財が失われたことを発見し、大変に驚き嘆き、訴えました。
そして、天皇から賀茂に救いの手が差し伸べられ、神祇省(じんぎしょう)は名目上はなくなり、また多くの社家の子供たちは学校に通うことができた、とのことです。
その無茶な解体方法には天皇陛下も心を痛められたとの事で、それを行った役人には処分があり、社家が困窮しないよう奨学金がはじまった、というわけですね。
市民と神社・観光客と神社・神社と人の距離
神社というのは、本当に不思議なところだと思います。
身近にたくさんありながら、神聖な場所でもある。
普段から生活の一部としてお参りをしている人もいれば、観光で訪れる人もいる。
大げさな言葉かもしれませんが、やはり神社は何かこう日本人にとって心の支えのような側面があると思います。
だからこそ、ずっと守っていきたいという気持ちにもなります。
ただし、物理的にも古いものを維持するのは本当に大変なことですよね。
伝統の建築を継承する職人さん、特別な木材やその他回収に必要な材料、修繕にその都度かかる資金、どれが欠けても今後も維持することなんて到底できません。
だからこそ、変わらないでほしいものと同時に、維持のためには新しいものも必要だと感じます。
京都のオーバーツーリズムは大変話題にはなっていますが、たくさんの観光客の方によって支えられるものもあるのは事実ではないでしょうか。
また、伝統を守りながらも上手に新しいものを取り入れながら維持をしていくことが必要で、神社やお寺で行われるイベントは、その好例ですよね。
上賀茂神社にある美味しい水を使った珈琲が飲めるカフェも、周囲の景観に見事に溶け込みながら、神社に訪れた人のオアシスになっています。
外の木のベンチに座って、大きな木々を見上げ、その木陰で鳥や虫の声を聴きながら珈琲を飲んで伝統の焼き餅をいただく。
こういった時間に悟りが開けそうな気さえしてきます。
私たちはどこから来たのか
上賀茂周辺の歴史と魅力をとりとめもなく綴りましたが、何故こうやって人は神社を大切に思い守ってきたのか。
そのごく自然な神性はどこから来るのか。
私たちのルーツは一体どこなのでしょうか?
渡来人の子孫なのかもしれないし、渡来人の中でもどこから来た民なのか、どのような経緯で来た民なのか、知りたい気持ちが湧き出てきます。
自分が京都にいると言っても、今隣にいる人が日本人だとしても、もしかしたらそれぞれが全然違うルーツにたどり着くかもしれません。
様々な人が長い長い道のりで日本までやってきて、それぞれ開拓し、住み着いたとした場合、上賀茂にはどういう人が来たのか。
社家の独特の生活様式や上賀茂神社で行われてきた神事のルーツは?など、不思議で特別なつながりがたくさんあり、今までとは違う角度で物事が見えてきます。
上賀茂の歴史を紐解いて行けば行くほど、今まで考えもしなかった点と点がたくさん出てきて、一本の線で繋がりそうな気がします。
京都に渡来した重要人物として一番有名なのは、秦氏(ハタ氏)だと思いますが、秦氏と賀茂氏の繋がりも様々な考察があります。
秦氏はどこから来たのか、そしてどういう人種なのか、何故この水害の大変多かった上賀茂の地が今のような静かで安全な場所になったのか。
秦氏と賀茂氏が紡いできた歴史や、今現在の日本にもつながっている重要なことなど、本当に京都の特別な深い深い歴史の一端を知ることは、驚きと喜びの瞬間でもあります。
まとめ
このような京都の特別な歴史や文化・宗教については、「実は興味がある。気になってた。面白い!」と思う方が結構いらっしゃるのではないでしょうか?
上記の内容は、私が社家の方からお聞きしたり、書籍や文献から知ることができた内容のほんの一部です。
そしてそれは、真実かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
でも、自分たちのルーツを知ってみたいと思う心はきっと誰でも本当は持っていると思うんです。
その一つのヒントとなるような京都の特別な歴史探求ツアーにピンときた方は是非ご参加ください。
上賀茂・神山・社家という京都の特別な地を実際に自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分と向き合い「ああでもないこうでもない」と思索する。
そんな知の探究の旅に是非出かけましょう。
どうぞお気軽にお問い合わせください。